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宇和海沿岸にみかん畑が広がる風光明媚なまち、愛媛県西予市明浜。ここで、みかん農園を営む片岡星也さんは、高校進学と同時に明浜を離れ、26歳からふたたび明浜に暮らし、家業の農園を継いだ。「故郷で誇れること」と「夢を追う仲間」を得て、地域の明るい未来のために走り続ける。
明浜はどんな地域ですか?
野福(のふく)峠からみかん畑や宇和海が広がる眺めも、満天の空もきれいで、豊かな四季を感じることができます。時間がゆったり流れていて、地域の人たちもやさしくて温かい。道ゆく人が笑顔であることもこの地域ならでは、かもしれませんね。
生まれ育った場所に戻ってきた理由は?
バレーで進学した高校から一人暮らしをするほど、外の世界を知りたかった。高校の先生から進められたスポーツ施設をつくる就職先は、本社が東京でした。視野を広げたいと思って迷いなく挑戦しましたし、帰りたいと思ったことはありませんでした。仕事にもやりがいを感じていましたが、一方で、みかん農家の長男というのもあって継がなくていいのかな、と気にはなっていましたね。でも、親父に聞いたら「お前の好きにせいや」って言われて。
ところが、実家に帰省していたとき、西予市の広報誌に、同じ世代の知り合いのみかん農家が紹介されていて、彼の「みかんの産地はどこも高齢化や担い手不足の問題があるけれども、ピンチはチャンスだと思ってがんばりたい」みたいな言葉に目が留まりました。なぜか、そのフレーズにすごく惹かれました。ぼくも一緒に産地を盛り上げたいなと思ったんです。
農家の仕事はどうでしたか。
帰ってきた当初は正直、仕事のおもしろさに気づきませんでした。それまで、工事の現場監督をしていたので、作業員さんと話し合いながら作業を進めていたのに、だれの声もしない静かな畑で、みかんの木と向き合うというまったく違う状況になったわけです。当然、木は何もしゃべってくれなくて、何を欲しがっているのかもわからない。それでも、地域の先輩農家からアドバイスをもらいながら、試行錯誤をするうちに水や肥料をやるタイミングがわかるようになりました。剪定ひとつとっても奥が深くて、ここを切ったらこっちが伸びるとか、考えてやると木がこたえてくれるんです。今は楽しんでやっていますよ。
Uターンから3年間、栽培技術の取得も地域の一員としての活動も地道に取り組んでいく。そして2020年、若手のみかん農家の4人で「天晴(あっぱれ)農園」を立ち上げた。
天晴農園を立ち上げたきっかけは。
みかん農家を継いですぐ、「自分らで直接売りたい」「若い担い手を増やしたい」とメンバーの一人に相談をしていました。そのメンバーこそ、ぼくが帰ってくるきっかけを作った広報誌の彼(まさくん)です。まさくんをはじめ、故郷に帰ってきてから仲良くなった4人で立ち上げました。
明浜は、若い世代が少なくてみかん農家の数も減ってきています。ぼくらが発信源になって若い人を呼び込み、「天が晴れる」ようになったらいいなと思って「天晴農園」と名付けました。たくさんの人に、農業の楽しさと明浜の良さとみかんのおいしさを伝えていき、いずれは法人化して若い子らが働ける場所になるのが目標です。
S N Sを使った発信に力を入れていますね。
みかん農家になるまでは一切、S N Sをやっていなかったんです。きっかけは「平成30年7月豪雨」でした。土砂崩れといった被害が多発していたのですが、各地の被害が甚大すぎて、明浜には災害ボランティアがほとんど来ませんでした。農家自ら、仕事をしながら農地を立て直さなければならない大変な状況に、「これではダメだ」とS N Sを使って外に発信をしはじめました。
それからも、S N Sを活用してこまめに生産者日記を発信していくと、地元の人から「見たよ!」と声を掛けられたり、お客さんから直接「おいしかったよ」とか「今度のはちょっと酸っぱかったね」とか反応が見えたりするように。「もっといいものを作ろう!」というモチベーションにつながっています。天晴農園をはじめてからは、メンバーと一緒に、企画も含めてますます力を入れています。
仲間と一緒に産地を盛り上げる星也さん。それは、みかんという枠にはおさまらない。明浜の子どもたちに“集う場所”と“地域の誇り”をつくろうといま、いろんな仕掛けに挑んでいる。
地域活動にも力を入れていますね。
ぼくらの時代より、子どもたちが集まる場所がすごく少なくなりました。昔は、習字教室とかカルタ遊びとか、集まる機会がたくさんあって、一緒になってコミュニケーションをとる場が楽しかったのを今でも覚えています。
ぼく自身、粘土を使ってミニチュアの食べ物を作るのが趣味で、地元の子らを集めてワークショップを開いたら、たくさん集まってくれてとても喜んでくれました。地元のミニ駅伝大会でも、ぼくがUターンした年は、子どもの参加は2チームだけ。「おれたちが盛り上がらんと」と、仲間とドラえもんのコスプレを着て参加したら、子どもたちが大喜び。なんと翌年は10チーム以上が参加しました。「ジャイアン」に扮していたぼくをみてから、今では子どもたちみんな、僕のことをジャイアンって呼ぶんですよ(笑)。
なぜ、子どものために奔走するのですか。
中学の卒業と同時に明浜を出たぼく自身、帰ってくるまでこのまちの魅力に気づきませんでした。それでも高校時代、クラスの子から「田舎出身なんやろ」って言われたのが悔しかった。今の子たちに一つでも、このまちに誇れるものを自信満々に言えるようになるのが、ぼくの願いです。
明浜の誇れるもの、できましたか。
明浜は、みんなで一緒に笑っていられるまちです。それが、この明浜の誇れるものだと気づきました。ここには、一緒に夢を叶えようと歩んでくれる仲間がいます。地域の人たちもぼくたちの活動を心から応援してくれます。天晴農園のみかんジュースを販売するときに使うディスプレイ用のスタンドも、地域の人がサプライズで作ってくれて。地域の人たちの思いがとても励みになっています。
Uターンしたくてもできない子もいると思います。ぼくたちが楽しむことで、親御さんが子どもに「最近、若い子らが楽しそうにやりよるぞ、帰ってこいよ」って伝えたくなるような、そんな雰囲気をつくっていきたい。ぼくが明浜に帰る動機になった言葉「ピンチはチャンス」を地域みんなで、現実にしていきたいです。