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ほぼ一年を通して柑橘が出回る、柑橘王国・愛媛。高校を卒業し、両親とともに愛媛へ移住し、砥部(とべ)町で柑橘農家になったのが仙波典晃さんです。一から農業を学び、周囲の助けに支えられながら、地域と生きる姿をお届けします。
移住して、一から学んで柑橘農家を志す
県庁所在地・松山市のベッドタウン、砥部町は陶芸と柑橘栽培がさかんなまち。仙波典晃さんは2012年、名古屋市の高校を卒業後、柑橘農家をめざして砥部町に移住しました。
静岡県に生まれ育ち、親の転勤に伴い、三重県、愛知県で成長していった仙波さん。高校を卒業と同時に、小学4年生から暮らしていた名古屋市を離れ、母方の実家がある砥部町に引っ越します。「両親とも愛媛県出身で、いつかは愛媛に戻るつもりだったようです。それが高校卒業のタイミングと重なり、僕も一緒に砥部町に引っ越しました」
新天地で志したのは、柑橘農家。母方の実家が柑橘農家だったため、幼少の頃から砥部町を訪れては、園地で働く祖父の姿を見ていたそうです。「これまでいろんな産地の柑橘を食べましたが、愛媛のおいしさは別格。いつの日か、祖父のようにおいしいみかんを作りたいと思っていました」
そこで、松山市にある愛媛県立農業大学校へ入校し、栽培技術や農業経営について学び始めます。柑橘と一口に言っても、愛媛の柑橘は多品種なのが特徴。極早生(ごくわせ)から始まり、「紅まどんな」「せとか」「甘平(かんぺい)」といった高級柑橘まで、その数は40種類以上におよびます。
「たくさんの柑橘があることにも驚きましたし、草刈り機のエンジンのかけ方もわからなくって、本当に何にもわからない状況からでした。ただ、愛媛の気質なのか、穏やかな人が多くて安心できましたね。僕のように他県から未経験で学びに来た人もいたことにも救われました」
人と人とのつながりが、暮らしと仕事を支える
寮生活の2年間を経て、次は砥部町から約60キロ離れた大洲市の柑橘農家で研修を積みます。連日砥部町から通い、2年間の走行距離はなんと10万キロ。農家としての実践と心構えを学んだのち、砥部町内にある60アールの畑で独立を果たしました。仙波さんが23歳のときです。
通算4年、柑橘について学んだといえ、いざ一人で農家として自立するのはまるで別のこと。両親も仙波さんをサポートしながら、てんやわんやの日々が始まりました。「なんとか続けることができたのは、周りの人たちの温かいサポートのおかげです。園地を貸してくれたり、栽培方法をいろいろ教えてくれたりと、本当に助けられました」
独立して6年目のいま、農地は倍の広さの1ヘクタールまで広がり、紅まどんな、せとか、伊予柑、デコポン、甘平など8種類を栽培しています。
「ここには“見回り”というシステムがあって、定期的に農家のみなさんが園地をみてくれて、作業を教えてくれるんです。ありがたくて、とても助かっています。一人で農業をしていると正解を言ってくれる人がいなくて不安になります。だからこそ、先輩農家さんの声はとても貴重です」 共助の精神が息づく地域に支えられる一方、仙波さん自身も、地域や農業のいろんな役を担い、まちのために尽力。「消防団にも入っていますし、農業関連でもいくつか役を持っています。大変ですが、地域の活動に顔を出すことで僕自身を覚えてもらえるし、地域のことを知ることもできます。農業は地域があっての産業。人と人とのつながりを大切にしなければと思っています」
仕事も趣味も、おもしろそうなことはやってみる
「地方へ移住して農家になりたいという話はよく耳にします。農業をなりわいにする大変さはやってみて、とても実感しています」と仙波さんは打ち明けます。一方で、「農業という働き方は本当に自由」とも。「柑橘のことだけ考えて、あとは好きにしていい。でもその分、全部が自分の責任です。手をかけるだけよくなるし、やることを怠ったら悪くなる。覚悟がないとできないですね。でも、それがやりがいにつながって、おもしろさにもつながります」
農家の“自由さ”を表すかのように、仙波さんは多趣味の人。宝石を含んだ石を集めたり、木を切って笛を作ったりと、暮らす地域の自然のゆたかさを生かし、おもしろそうな“タネ”を見つけては手を動かす日々。「若いうちに仕事も趣味もまだまだいろんなことに挑戦してみたい。“おもしろそう”と思ったものをやる。そんな人生の方がゆたかじゃないですか」
高齢化が進み、担い手も減り、後継者不足に悩む産地にあって、覚悟と責任を持って農業に向き合う仙波さん。担い手のない園地を引き受けながら、園地を広げ、「農家としてはまだまだこれから。柑橘のクオリティを高めていきたい」